優しさと大河の一滴

 「人は仏の小さな道具、小さな筆先、人の行いは大河の一滴、しかしその一滴がなければ、海はその一滴分、少なくなる」これは私が読んでいる「守教」(帚木蓬生著:新潮文庫)の中に登場するお寺の老住職の言葉だ。その意味を解釈する力が私にはまだない。我々人間は、仏の小さな道具であり、小さな筆先である。道具、筆先?そして我々の行いは大河の一滴。その一滴のたどり着く先が海であり、その海の水の一滴一滴が我々である。大河の一滴、そして海?あまりにも壮大なたとえ話で私にはその意図するところが掴みきれない。人は、どこかの山の頂にて、雪解け水の一滴としてこの世に生を受け、山から谷へ、そして小さな川を下り、そして大きな川へ流されていく。長い旅路の終わりに、海が待っている。以前「大河の一滴」(五木寛之著:幻冬舎文庫)を読んだことがある。内容はほとんど忘れてしまった。その本が現在のコロナ禍で売れているという。その著者である五木寛之さんは言う。「なにも期待しない覚悟で生きなさい」と。確かにそう思う。こちらが能動的に何かを人に施した時、その都度相手に感謝されることを求めるようなことはしないことだ。いつも何かを期待していると、自分の思い通りにならなかった時にいつでも落胆するようになり、いちいち疲れることになる。初めから何も期待しないで黙って行動すれば気を遣うことはない。見返りを期待しない。ただただ目の前のことをこなしていくだけ。決して欲をかいてはいけない。無欲で生きて行く。中途半端に期待するから裏切られたときに失望し、そして身動きができなくなる。無欲で、なにも期待せずに、目の前のことを淡々と、黙々と、自然の流れに身をゆだねて、進んでいく。それが一番自然なのかもしれない。大河の一滴である自分が川の中でじたばたしても、大河の流れは変わらない。自然の大きな力に抱かれて、神から与えられた自分のやるべき仕事を、ただただ黙々と静かにこなしていくことが大切なのだと思う。