優しさと自然の摂理

 蓮の花を育てている。直径50cmくらいの水鉢だ。緑色の丸い葉っぱが4枚水面に浮いている。その水面から立ち上がってきた葉っぱがようやく2枚ほど。花芽はまだまだ出てこない。その水の中にメダカが4匹。時折、水面まで上がってきて波紋を広げている。藻を食べたり、蚊の幼虫、小さなボウフラを食べている。田螺(タニシ)も住んでいる。田んぼの土を混ぜ込んであるので、おそらくその中に卵が入っており、卵からかえったものが生息していると思われる。水鉢には細い竹の棒を立てておく。何故か?トンボの幼虫、ヤゴが住むからだ。昨年の秋にトンボが水鉢に卵を産む。それが卵からかえってヤゴとなり、しばらく水中で過ごしたあと、成虫、つまりトンボになるためにその竹の棒を登ってくる。そのための棒だ。まだ私の水鉢にヤゴはいない。直径50cmの自然がそこにある。いつの間にかトンボが卵を産み、ボウフラがわき、ヤゴそしてタニシが動き回り、勝手にアメンボが住みつく。そこに蓮の水鉢を置いただけで、これだけの自然が集まってくる。その自然を観察している私も自然の一部である。蓮の葉っぱの上にコロコロ転がる丸い雨水が、鏡のように、水鉢をのぞき込む私の顔を映し出していた。自然と一体化する瞬間である。今日の朝日新聞に「福岡伸一の~動的平衡~コロナ禍で見えた本質」という記事があった。「人もウイルスも制御できぬ自然」という見出しもある。「新型コロナもやがて新型ではなくなり、普通の風邪ウイルスになるだろう。宿主(人間)側が免疫を獲得するようになれば、ほどほどに宿主と均衡をとるウイルスだけが残るからだ。だから長い時間軸の中でリスクを受容しながらウイルスと共存するしかない。」と福岡さんは言う。このような意見を持つ方は少ない。政府の新型コロナ対策班の方々、そして毎日テレビ出演している感染症専門家と言われる人たちは、新型コロナウイルスを数字に置き換えた物言いをしているが、ウイルスは数字で表されるものではない。自然物である。一人の人間を数字で表せることができるのか?臨床試験のデータやAIによる回答などで支配できるものではない。確かに新型コロナの臨床研究は大切だ。それを否定することはない。しかし相手は自然だ。我々人間は、ウイルスという自然を相手にしていることを忘れてはいけない。自然物である人間が、同じ自然物であるウイルスに抗う。もし人間の力だけでウイルスが駆逐できるのであれば、その逆もあり得ることになる。いずれウイルスが人間を滅亡に追いやる。しかしウイルスは宿主(人間)がいなくなると自分の命の存続もない。だから今回もウイルスは人間と共生しようとするだろうし、今までの歴史の中でもそうしてきている。ウイルスの方が賢いのか?ウイルスがこの世界に生まれてからの歴史を考えれば、人間の歴史など無いに等しい。現代の人間は自然に学ぶという謙虚さを完全に失ってしまったようだ。現在の新型コロナ騒ぎにおいても、自然に学ぶという姿はない。人間は自然の摂理に抱かれていることを忘れてはいけない。