優しさと自己犠牲

 優しさとはなんだ?この日記の原点に立ち返るつもりで、今まで幾度も繰り返し考えてきた。以前の日記でも、優しさとは「ゆるすこと」だと書いてきた(’19.8.11. ’19.12.28. ’20.1.14.)。今でもそう思う。これは間違いない。ここで「ゆるす」とは自己への精神的自己犠牲を伴うものだと思う。「ゆるす」とは相手の言動や行動について、少なからず自分の心に巣くう不平不満の気持ちを無理に押し殺し、浄化することだと思う。そこには自分の本当の気持ちを抑え込むという作用が働く。自分にとっては負の作用だ。我慢することにも似る。だから疲れる。自分に無理を強いるから。人に対して優しくするとは、多かれ少なかれ自己犠牲を伴う。肉体的にも、精神的にも。しかし、優しさを「ゆるすこと」「自己犠牲」と思っているうちは、まだまだ人として人物と言える存在にはなれないのではないかと、いま思った。相手のありのままの姿を、こちらの心と体ですべて無意識のうちに受け止めて、当たり前のように相手の気持ちを包容する。そこには「ゆるすこと」も「自己犠牲」も存在しない。ただしこれは優しさの意味の一面を言っているに過ぎない。優しさの形?にもいろいろあるからだ。今日はこの辺で・・・。また優しさの原点を求める日まで。