優しさと「自分らしく」

 自分らしく生きればいい。自分らしく生きることができればどれだけ幸せなことか。自分らしく生きればいいじゃないか。そうだよね?人と比べても仕方がない。それは自分さえ良ければいいというものではないけれど。人に迷惑をかけてはいけないけれど。誰にも気兼ねすることなく。自分は自分であって、他の誰でもない。誰かの生き方を真似するのではなく。自分らしく生きればいい。でも、そもそも「自分らしく」の自分てなんだ?自分てなに?自分らしくするって、実際どうすればいいの?そこが難しい。いや、難しく考えない方がいいのかもしれない。どっち?やっぱり「自分らしく」の自分を見つけることはなかなかできないのかもしれない。「自分らしく」を「自分らしさ」に置き換えてもいい。「自分らしさ」ってなに?老若男女を問わず、「自分らしさ」を意識しながら、認識しながら素直に生きている人はそんなにいないのではないか?50過ぎの私でもよくわからない。表現の仕方がわからない。まだまだ人生を語るには若すぎるのか?それでも最近になって、やっと「自分らしさ」というものがわかってきたような気がする。「自分らしく」生きてもいいんじゃないか?そう思えるようになった気がする。今ごろ?その年になって?と突っ込まれそうだが仕方がない。そんなとき、スガシカオさんの歌が流れてきた。「Progress(プログレス)」この曲の中に次のような歌詞がある。「ずっと探していた 理想の自分って もうちょっとカッコよかったけれど ぼくが歩いてきた 日々と道のりを ほんとは“ジブン”っていうらしい」「ねぇ ぼくらがユメ見たのって 誰かと同じ色の未来じゃない 誰も知らない世界へ向っていく勇気を “ミライ”っていうらしい」とてもいい言葉だと思う。自分らしく生きる。自分らしさを素直に感じながら生きる。人のことは関係ない。両親のこと、兄弟姉妹のこと、友達のこと、恋人のこと、仕事の同僚、上司、その他、いろいろな人間関係があるけど、そして社会全体の流れ、時代の変遷、さらに生きていくには働いて食べていかなければいけないし・・・。自分の頭の中は混沌たる状況だけど。一度頭の中を冷たい水でジャブジャブ洗って、自分の考えていることを見つめてみよう。自分は何をしたいのか、どんな人間になりたいのか、どんな人になっていたいのか、どんな姿になりたいのか。ゆっくり考えてみた方がいい。答えはそう簡単には出てこないと思うけど。社会との関係に折り合いをつけながら、少しずつ自分らしさを探していけばいい。そう思った。今日も自問自答しているような日記になってしまった。とにかくこの「Progress(プログレス)」という曲を繰り返し聴いてみよう。背中を押してくれる。そんな気がした。今日のYouTube「Progress - ap Bank fes 09 - スガシカオ with Bank Band LIVE」

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優しさと小さき者の声

 先日ホテルに泊まった。ゴルフ場併設のホテル。いや逆だ。ホテル併設のゴルフ場。お客さん相手の業態はすべてそうだが、新型コロナの影響でそこのゴルフ場そしてホテルも休業に追い込まれたらしい。予定では5月の連休後に営業を再開する予定でいたが、緊急事態宣言等により連休後もしばらく営業自粛せざるを得なかったと、ホテルのレストランで働く若いお兄さんが言っていた。その彼が言うには、「実は私はこのホテルの従業員ではないんです。となりのゴルフ場のスタッフなんです。ホテルが営業自粛している間に、もともとここで働いていた従業員の人たちはほとんど解雇に近い状態で辞めてしまって、現在働く人がいなくて私も昼間はゴルフ場で働いて、夜はこちらのホテルのレストランにヘルプで働いている状況なんです。自粛が解除されたと言っても、お客さんはまだまだ少ないですし、また以前のようにお客さんが戻ってくるかどうかもわかりません。もしまた新型コロナの第2波が来てまた自粛要請になったらもうお手上げで、私もいつまでここにいられるかわかりません。」と少し悲しげだった。そのレストランで夕飯を食べながら、そのホテルを辞めていった従業員の人たちを思い、私はやりきれない思いでいっぱいになった。悲しい。そのレストランから眺望できる綺麗なゴルフコース。でも空を見上げると梅雨空のうす暗い雲がゴルフ場全体に暗澹たる陰を落としている。泣きそうになる。やっぱりこの世の中の流れは間違っている。今日も東京都では100人を超える新型コロナ感染者が出現している。東京都として企業への営業自粛はまだ出していないが、政府による再度の緊急事態宣言発令待ちの様子だ。都民からの批判をかわすつもりで、責任を国に転嫁するような姿勢がみえる。前回の緊急事態宣言や自粛要請で、我々市民の中には、ひどく困窮し、路頭に迷い、明日の糧もなく茫然自失となっている人たちがどれだけ多くいることか。社会的に弱い人たち、声を上げようにもその手段を知らない人たち、国からの援助を受けられない人たち、本当に多くの人たちが困っている。レストランで働いていた若いお兄さんの声はどこまで届くのか。ホテルをチェックアウトする際に、そこの支配人と思われる女性に私は声をかけた。「早くお客さんたちがいっぱいもどって来るといいですね!きっとまた忙しくなりますよ!応援しています!頑張ってください!」と。支配人「ありがとうございます!そのお言葉を従業員たちに伝えます!またいらしてください!ありがとうございました!」その支配人の顔は不安と期待の入りまじった泣き顔だった。今を必死に生きて行こうとしている、この頑張っている人たちの声を、思いを、誰でもいいから、一人でも多く、受けとめてほしい。今日のYouTube林明日香 MV「小さきもの」七夜の願い星 ジラーチ (歌詞あり)」

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優しさと相田みつをさん

 「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」これは書家であり、詩人でもある相田みつをさんの言葉だ。私はこの「にんげんだもの」という言葉が好きだ。事あるごとに、つい口から出てしまう。心の中でつぶやくこともある。「にんげんだもの」この言葉には、人間の弱さという意味合いが込められていると私は思う。人間は弱いものだ。もちろん私を含めて。何かにしがみついていないと、誰かに寄りかかっていないと、どうしても一人では進めない。勇気がなくて、自分一人じゃ何もできない。失敗したらどうしよう、負けたらどうしよう。人をだまして、自分をだまして、自分を偽って生きて行く。「にんげんだもの」人間は弱い存在だ。年をとると身に沁みる。若い頃は自分の弱さを覆い隠して、他人の愚かさをののしりながら、自堕落なこの世の中に唾を吐きかけながら、突っ走る。自分の弱さを見たくない。自分が弱い存在であることを肯定したくない。年をとると自分と向き合う時間が多くなる分、自分の弱さを素直に認めるようになる。まあ、年をとってもまだまだ精神的に弱い部分はいくらでもある。今でもその弱さに赤面することがある。恥ずかしい。「にんげんだもの」そして「つまづいたっていいじゃないか」である。そうそう。無理をしないこと。少しは気をぬいて。やり直しはいくらでもできる。誰かに頼ってもいいじゃない。失敗したっていいじゃない。「にんげんだもの」弱くて当たり前。みんな同じ。ずっと強くいるなんて誰にもできない。ずっと我を張っていたら疲れちゃう。それこそ行き倒れになる。人の弱さを認めてあげて、自分の弱さも受け入れて、肩の力をぬいて、それでもつまづいて転んでしまったら、起き上がらずに少し休もう。きっと誰かが手を差しのべてくれるから。誰もいなけりゃ、また自分で立ち上がればいい。ゆっくりと。弱くていい。人間だもの。

今日のYouTube:「Progress - ap Bank fes 09 - スガシカオ with Bank Band LIVE」

https://www.youtube.com/watch?v=GcNptMt2ftQ&list=PLOqE_lx9qXYOslTBUpQb6ZKcQWK6B4zIW

「泣ける歌「スタートライン」馬場俊英

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優しさと方位磁石

 私は方向音痴ではない。だが、車の中と机の上に、おもちゃのような小さな方位磁石が置いてある。いずれも何かの付録だったものに違いない。机の上のものについては、ポケモンのピカチューらしき図柄が描かれている。完全におもちゃの領域だ。しかし、しっかりと正しい方位を示す。いつでもどこでも方位を確認しているわけではない。なぜ持っているか?いや、ただなんとなく、と言うしかない。机に向っては時々方位磁石を手にとって、「あ、自宅の向きは南向きでなくて微妙に南南西向きなんだなあ」とか、どこかで車を停めた時に「あ、北に向かう道だと思っていたら、実は北東に向っているんだな、この道は」とか、自分の位置感覚を時々修正するために、その方位磁石を見る。もともと方位磁石は自分の行き先、目的地までの道、方角を確かめるために用いる道具である。特に山に登る時には、地図とともに必ず必要になるものだと思う。正しい方向を指し示し、その方向に向かって歩いて行く。最近、思う。これって何かに似ていないか?本?読書をすることと似ていないか?そう思った。人生という道を歩いているとき、突然、自分の歩いていく方角がわからなくなることがある。だいたい人生なんて思い悩みながら歩くもので、行き先はその時によって変化していくし、最終目的地など初めからわかるわけがない。しかし、自分がどの方向に行こうとしているのか、どこへ向かって歩こうとしているのかに悩んだとき、立ち止まって考えることを助けてくれるのが本を読むこと、読書だと思う。本を読むことで、自分の考え方、心の有様を、身の振り方を、立ち位置を、再確認することができる。自分の歩く道はこれでいいのか?歩こうとしている道はこれでいいのか?方角はどちらだ?また、振り返ることで、この道で良かったのか?あらためて考えることができる。それが読書だ。そう思った。人生いくらでも修正がきく。どの道を選んでも、あともどりしても、遠回りしても、自分の信じる道を歩けばいい。ただ、思い悩み、歩けなくなったとき、本を開けばいい。ゆっくり時間をかけて、ゆっくり本を読めばいい。きっとまた歩けるようになる。自分の歩いていく道を照らしだしてくれる。読書という方位磁石。私の読書が指し示す道のりはまだまだ遠い。死ぬまでにたどり着けることができるのか?それでも、一歩一歩、前を向いて歩いて行くしかない。

優しさとレジ袋有料化

 明日は7月1日。レジ袋が有料になる。私の店でも有料化される。一袋3円または5円。プラスチックごみによる環境破壊が世界的に問題になっている。特に海洋汚染。そのプラスチックごみはどこから海に流れ込んでくるのか?世界のランキングとしては、中国や東南アジアの国々が上位を占めている(日本は30位くらい)。その国々が排出するプラスチックごみを厳しく規制しなくてはいけない!と叫びたいところだが、実情はそうではないらしい。だって日本は1人あたりのプラスチック容器包装の廃棄量が世界2位ですよ。なんかおかしくない?実は日本や欧米のような先進国では、処理しきれなくなったプラスチックごみを発展途上国に輸出している。もともとプラスチックは石油製品だから、燃やせば熱を得ることができる。それを利用する。それに石油を買うより安くすむ。先進国はプラスチックごみのやり場に困っている。発展途上国はそれを安く買って発電所等に利用する。お互いに有益である。そういう暗闇がこの世の中にはある。海洋汚染は発展途上国によるプラごみ流出が問題なんだ!と言うのは大間違いで、実は先進国、特に日本から排出されるプラごみが問題なんだ!ということです。プラごみ排出大国は日本です。海を破壊しているのは日本です。最悪ですね。今回はレジ袋が有料化になるということで、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ環境破壊を防止する一助にはなると思うが、その反面、今回の新型コロナの騒ぎでは、レジ袋有料化に伴うプラスチックごみの減量など全く無視されるようなプラスチック増産体制がこの社会で生まれた。最悪だ。それは何か?フェイスシールド、透明プラスチックマスク、プラスチック防護メガネ、スーパーなどのレジに吊り下げられたビニールシート、アクリル板、もうありとあらゆるところに新型コロナウイルスを防御する目的でプラスチックが使われている。最悪ですね。何のためのレジ袋有料化なのかわかりません。新型コロナから体を守るための方策でしょうが、それは完全に間違いです。最近の調査、研究によると、人間の便(ウンコですね)に少なからずプラスチックが検出されるようになってきたと。どういうことか?海に流出されたプラスチックごみが、マイクロプラスチックになり、それを魚が食べる。体に蓄積される。その魚を人間が食べる。当然人間の体に蓄積される。遠くない未来に、人間の体に蓄積されたプラスチックが、人間を内側から破壊していく。新型コロナウイルスは感染する人と感染しない人がいる。しかし、プラスチックに関しては、ほぼすべての人間の体が犯されていく。今どきのパン屋さんへ行ってパンをいくつか買うと、そのパン一つひとつをビニールの袋に詰めて、さらに大きなビニール袋にそれらを入れてくれる。もう、やめましょうよ、そういうの。過剰包装も甚だしいでしょ。身の回りにどれだけプラスチックが多いことか。環境を破壊するのはやめましょうよ。日本人。環境破壊大国ですよ、日本は。昔、子どもの頃、母親に頼まれて卵を買いに行ったことがある。バケツを持って。バケツ?養鶏場に。養鶏場?そんな時代が半世紀前にあった。今でも覚えている。自分の家からそう遠くない道のりを、まだアスファルトで舗装されていない泥と砂利の道を、空のバケツを片手に、時にはそれをグルグル振り回しながら養鶏場まで歩いた。養鶏場に着いて、大きな声で「た~ま~ご~、く~~~ださい!」と叫ぶ。するとどこからか、手ぬぐいで頬かぶりをした腰の曲がった婆ちゃんがやってきて、「いくつ欲しいんだい?」と。私が「10個!」と言うと、「あいよ~」と言いながら、卵を大事そうに一つひとつバケツに入れてくれた。そこでお金を払い、少年だった私は、少しだけ大人になった気分で、茜色に染まっていく帰り道を、ニヤリとしながら歩いたものだ。そこにプラスチックというものは一つも介在していない。もう、やめましょうよ、プラスチック。

 

優しさと命の値段

 蓮を植えてある水鉢の中にメダカがいる。その1匹が死んだ。原因不明。酸素不足か?水1リットルに対してメダカ1匹という割合で、2ヶ月くらい前に4匹買った。1匹ずつ亡くなって、のこり1匹。メダカでも、亡くなると悲しい。「メダカでも」という言い方はメダカに失礼か。ごめんなさい。その都度、水鉢の脇の地面を掘って亡き骸を埋葬する。手を合わせて合掌。メダカの種類は「ヒメダカ」。1匹48円。水鉢に1匹のこったメダカが可哀想なので、またホームセンターへ仲間を買いに行った。しかし、観賞魚コーナーに行くと、ヒメダカの水槽には仲間が1匹もいない。お店のスタッフに尋ねると、「ごめんなさい。いまヒメダカは売り切れてしまっているんです。」と。どうしようかと思いながらも、隣の水槽を見ると、「黒メダカ」という名札が付いている。そこには10匹くらいのメダカが泳いでいた。黒メダカというから真っ黒かと思ったが、すこ~しだけ黒かな?という色具合のメダカだ。少し悩んだが、結局それを3匹買うことにした。1匹80円。そこで思った。ヒメダカ1匹48円。黒メダカ1匹80円。命に値段の差があるんだなと。あらためて思った。おかしくない?以前、私の家でも犬をペットショップで買ったことがある。15万円。私は子どもの頃から犬や猫を飼ってきた。いずれも、もらってきた子犬であったり、捨て猫であったりしたのを飼った。だから初めて子供のために犬を買ったときは、命を買うことに対して、何かうしろめたさのようなものを感じたのを覚えている。私のこの考えは、所詮キレイごとだとは思う。なぜなら、毎日、命を頂きながら生きているからである。スーパーで、肉を、魚を、野菜を買ってくる。それを食べて生きながらえている。毎日毎日50年以上も。それらの食べ物は、かつて生きていた。私たちに食べられる時に値段がつけられてくる。それが命につけられた値段であることを我々が意識することはない。命に値段をつけることはできない、そう言うけれど、実際には値札がしっかり付いている。人間一人ひとりに値段がついていたら、どう思うか?良い気分はしないはずだ。「なんでお前より、俺の方が値段安いわけ?」と論争の火種になる。歴史的にみれば実際に人間に値段がついていた時もある。奴隷制があった時代、人身売買が公然と行われていた。人間に値札のつかない(闇社会ではあるかもしれない)この時代に感謝しなければいけない。だからこそ、逆に、値札のついている動物たち、ペットたちを大切にしよう。そして、人間が生きるために食される動物たち(野菜も)の命も粗末にせずに、食べ残すことなく、ありがたく頂こう。そう思った。人間の命だけではなく、この地上に存在するすべての命に感謝しながら、生きて行こう。水鉢の中にはヒメダカ1匹と黒メダカ3匹。仲良くやってもらいたい。その前に死なせないように管理しなきゃ。う~~~ん、難しい。

 

優しさと「比較の基準」

 毎日毎日ニュースで東京都の新型コロナ感染者数が発表される。最近は40~50人くらいで推移。本日は60人だったらしい。この数字が多いのか少ないのか?だいたい1400万人都市で60人という数字は、ほとんど0(ゼロ)ですよね?というか、逆に、東京都のような1000万人を超える都市で感染者が60人なんてあり得ないですよね。その100倍か、1000倍、それ以上いるでしょ、きっと。検査すればもっともっと感染者数は増えますよ。感染しても症状の発現しない不顕性感染の人を考慮すれば、もっともっと。現在その精度が5~7割程度のいい加減なPCR検査の機器分析装置の性能が向上し、100%近い精度で検査が可能になり、さらに迅速になれば、もっともっと増えますよ。昨日の朝日新聞に「死生観への郷愁」という題目で京都大学名誉教授、佐伯啓思先生の記事が載っていた。その中で「日本全体でみても、(新型コロナの)感染確率は高く見積もっても0.02%以下である。一方、インフルエンザによる直接、間接の死者数は年間約1万人とも推定され、2018~19年の感染者数は何と約1200万人を超えている。これだけ見れば、インフルエンザの方がはるかに怖い感染症である。」と先生は言っている。もちろん「しかしこれはあくまで統計数字の話に過ぎない。」と付記されているが。私の最近読んだ本に興味深い言葉が出てくる。「公衆には、いわば、比較の基準が欠けていたのである。」(「ペスト」カミュ著:新潮文庫)毎日毎日新型コロナに感染した人の数、そして死亡した人の数など、新型コロナに関するさまざまな数字が情報として垂れ流されているが、一般の人々(公衆)は、他の感染症と比較することなく、すべての数字を直接的に受け止めているので、過剰に危機を煽られている感がある。昨日だか今日だか忘れてしまったが、世界の新型コロナの感染者数が1000万人を超えてしまった!というかなり衝撃的なニュースが飛び込んできた。と、思いきや、日本で冬期に流行る季節性のインフルエンザの感染者数は先述した通り、1000万人を超えているんですよ。日本一国だけで。一国だけですよ。一国。ピーク時の1月には平均でインフルエンザによる死者数が1日平均50人にもなるんですよ。一国だけで。今年の秋以降が非常に楽しみです。新型コロナの感染者数と季節性のインフルエンザの感染者数を具体的に競争させて欲しい。ついでにノロウイルスの感染者数も。あ、従来のコロナウイルスによる普通の風邪の患者数と、それによる肺炎でなくなった人の数も合わせて。「比較の基準」を設けて、国民の頭の中を一度きちんと整理して、冷静に判断が下せるようにしましょう。早く秋が来ないかなあ。