優しさと物書き

 本をいっぱい読むと、それだけ人の気持ちを知ることができる。登場人物の心の動き、心理状態を疑似体験できるから、現実の社会にあてはめて、周りの人たちの気持ちも少しは理解できるようになると思う。書くことはどうか?文章を書くと自分という人間を知ることができるような気がする。最近そう思う。この日記を書くことで、特に、以前の自分の文章を読み返してみると、いかに自分が嫌味な、性格の悪い人間であることに気づく。「文章を読めば、その書き手の性格がわかる」と誰かが言っていたが、その通りだと思う。以後気をつけよう。

優しさと肥える

 天高く馬肥ゆる秋。秋の空は高い。青空に浮かぶ雲を見上げる。そして身の回りには美味しい食べ物がいっぱい。馬ばかりではなく私も太る。今は飽食の世の中。ではなくてそれ以上に食べ物を大量廃棄する世の中。反省しなくてはいけない。食べ物を無駄にしてはいけない。この世の中には、その日に食べる物がない人たちが大勢いる。その人たちのことを考えれば、食べ物を捨てるなんて考えられない。賞味期限、消費期限切れなど関係なく、腐っていなければ食べられる。だいたい腐らせるほど食べ物を買う必要がない。必要最小限のものを買って、残さず食べる。いつも冷蔵庫の中は空っぽ。それが一番。無駄にしてはいけない。絶対に。だから、ついつい食べてしまう。そしてまた太った。

優しさと楽しい職場

 職場の人たちが明るいと仕事も楽しい。一人ひとりが楽しい思いで仕事ができればいいなあ。どんなに忙しくても一緒に仕事をする仲間がみんな楽しければやりがいを感じる。人が集まるといろいろな人間関係が生まれてギクシャクすることもあるけれど、そうならないようにしたい。人の陰口を言ったり聞いたりすることは良くない。悪口は言わない。悪口を言う人は、必ず誰かに悪口を言われている。最近特に思う。みんなと仲良くするには、相手をほめることが一番いいと思う。一人ひとりに声をかけることが大切だと思う。苦手な人もいるけれど、できるだけ声をかける。ちょっとしたことでも相手をほめることでお互いが明るい気持ちになると思う。それが職場に広がっていけば、みんなが楽しい雰囲気の中で仕事ができると思う。みんなが明るく楽しくなれば、仕事も楽しくなる。八方美人だと言われてもかまわない。みんなが気持ちよくなって、楽しい気分になってくれれば。私は悪口を言われてもかまわない。相性が少し合わないと思う相手でも、世間話でもなんでもいいから勇気を出して話しかける。自分から楽しい職場を作っていこう。そう思った。

優しさと持久走

 持久走は苦手である。ここ数日、一気に気温も下がって来た。それで思い出すのが学校の体育の授業でこの時期になると必ずやる持久走である。だいたい冬になると開催されるマラソン大会に向けての練習だ。小学校の時から徒競走、つまり短距離走は得意で運動会の花形種目、リレーではクラスの代表で選ばれたりしていた。でも長距離は得意ではない。毎年1回行われる運動能力テストの種目1500mくらいなら我慢もできるが、5キロ、10キロになってくると、気分も暗くなってくる。高校のマラソン大会は、山あり谷ありの30キロだった。もうこの時期は気分が最高に滅入っていたものである。体力はあっても気力がないのだ。これは性格からくるものか?私は飽きっぽいのである。なんでもこなすわりには長続きしない。良く言えば器用貧乏。趣味も広く浅く。物事に深く切り込んでいくことがない。人と話すときの雑談力はかなりあるが、マニア向けの話のネタは持ち合わせていない。オタクの人がうらやましく思うことがある。読書は好きだから一貫した趣味と言えるが、今どき読書を好む人はあまりいないので、読書を中心とした会話は成り立たない。今日は民放テレビで箱根駅伝の話をしていたので今日の日記のお題に「持久走」を取り上げた。あ、実際に走ることは苦手だが、沿道で選手を応援することは大好きだ。毎年、年明けに近所で行われる町内マラソン大会には必ず黄色いメガホンを持って、大きな声で応援をする。選手の頑張っている姿を見ると、どうしても応援したくなってしまう。また来年の正月はメガホンを持って応援しようと思う。あ、受験生も頑張れ!!!

優しさと嫌味

 嫌味のない文章を書きたい。向田邦子さんのエッセイのような。楽しくて、笑えて、少し切なくて、それでもホッとするような文章。誰も傷つけることのない優しい文章。私の日記もあと2ヶ月足らずで2年になる。今までの文章を読み返してみると、なんと嫌味の多いことか。自分の文章ながら恥ずかしくてならない。優しさを追究しているようにはとても感じられない。これではダメだ。これからは嫌味のない、トゲトゲした文章は書くまい。そう心に念じて、心機一転しようと思う。 

優しさと人文学

 10月15日の朝日新聞「新型コロナ 『できない』から始めよう」という記事で、京都大学教授、出口康夫さんがおっしゃっていた。「人文学は、よりよき未来、あるべき社会に向けて、効率化の一元支配に反撃する最後のとりでです」と。記事の内容は私には難しくてよく理解できなかったけれども、最後のこの言葉はわかるような気がした。人文学とは何か?「文学、歴史学、哲学、宗教学」などが人文学とされているようだが、私には抽象的な感じがしていま一つよくわからない。しかし、文学、歴史学、哲学、宗教学それぞれが非常に大切な学問であることは理解できる。大学入試の際に選ぶ進学先としては、あまり人気のない人文学であるが、私のように齢50を過ぎた人間が痛感すること、それは、これらの学問は人間が生きて行く上で絶対的に必要であるということである。50を過ぎてやっと理解できた。この世に存在するすべての学問の上に君臨する学問。それが人文学であると思う。人が人として生きるために最も必要な学問。その中でも私は「文学」が一番大切なものであると思う。本を読むことにすべてが内包されていると思う。文学に没頭し、その中で歴史を学び、宗教を学び、哲学が生まれてくるという構図が自分の中にある。物理学や数学など、思考力や想像力が非常に重要になる学問があるが、その思考力や想像力を養うのも文学であると思う。すべては文学に始まり、文学に終わると思う。数年前に文部科学省が「文系廃止論」を唱えたことがあったが、ありえない。論外である。日本を滅ぼす気か!と感じた。政府には人文学を本当に理解する人間性豊かな人はいないのか?教育改革を真剣に考える人がいなくなれば、この日本もグローバルスタンダードの流れに抗いきれずに、精神的に貧しい国に成り下がってしまうのではないだろうか。淋しい限りである。

 

優しさと「世界食料デー」

 本日、10月16日は「世界食料デ―」。国際連合食糧農業機関(Food and Agriculture Organization:FAO)が1981年(昭和56年)に制定。いま「大量廃棄社会」(仲村和代、藤田さつき著:光文社新書)という本を読んでいる。日本で毎日のように廃棄される大量の食べ物について問題提起された内容である。コンビニの恵方巻き大量廃棄に関する話が載っていた。ここ数年、恵方巻きを大量に廃棄する映像がテレビから流れているのを見ることがある。本当に目を覆いたくなる光景である。もったいない。本当にもったいないと思う。誰もがそう思っているはずである。この世の中には、その日の食べ物も手に入らない人たちが大勢いるというのに。その本に「FAOによると、世界では生産された食料の3分の1にあたる13億トンが毎年廃棄される一方で、9人に1人が栄養不足に苦しんでいる」と書かれてあった。「誰もが毎日お茶碗1杯のご飯を捨てている」そのくらいの量を廃棄しているそうだ。ご飯をお茶碗1杯、毎日捨てるなんて、私にはあり得ない。考えられない。私は「もったいない」信仰者である。特に食べるものに関してはそうだ。貧しさゆえに、その日のご飯も食べられない子供たちの顔を思い浮かべてしまうから。お腹をいつもすかしている子供たちがこの世界にどれだけいるのだろう。その子供たちのことを考えると、ご飯粒の一粒も捨てられない。消費期限、賞味期限が1日でも過ぎてしまうと、それをゴミのように捨ててしまう人が多い。私の職場でもそうだ。コンビニで買ったおにぎりも、期限が1日でも過ぎるとゴミのように捨ててしまう人間が普通にいる。私はその時「待った~~~!」「もったいない、もったいない、もったいないことすんなやあ~」と言って、私がもらって食べる。口に入れて腐っているかいないかを確認して、食べられるようなら普通に食べる。1日と言わず、1週間も期限が過ぎていても私は平気である。もったいない。先日も去年の暮れについた餅が冷凍されていたものを発見し、持ち帰って食べた。おいしかった。コンビニの1週間前のサンドイッチも平気。1週間経ったシュークリームも平気。戦前戦後の食糧難のことを考えればぜいたくな世の中である。もっと食べ物を大切にしてほしい。何も食べる物がない子供たちのことを思ってほしい。今日のYouTube「シリアでの難民の子供達の現実(日本語訳有り)」

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