優しさとコロナの旅

 一泊で旅行をしてきた。となりの県なので車で1時間半も走れば着いてしまう距離である。ということでホテルにチェックインするまでに少々時間があり、地元の喫茶店に寄ることにした。こだわりのある美味しいコーヒーを飲ませてくれそうな店だった。初めて訪れる店だ。チェーン店ではない。住宅街にある普通の一軒家を喫茶店、珈琲屋さんに作り変えてある。駐車場は2台分。車の運転にも疲れたところだったので、ゆっくり美味しいコーヒーが飲めるという期待感でいっぱいだった。が、入口のドアを開けて入ると、そこの店主から「コロナ対策のため1組30分だけの入店になります」と言われてしまった。30分経ったら出てってね、ということだ。遠く離れたとなりの県からやってきて、やっと美味しいコーヒーを飲んで落ち着けると思ったら、早く出て行ってくれと。う~ん、と思わずうなってしまったが、とりあえず了解して、店主に促されるままカウンター席に着き、メニューを見た。するとその冒頭部分に次のようなことが書かれてあった。「コロナ対策のため、何か話したければ必ずマスクを着用すること。話すときも小声で。」と。う~ん、と思わずうなった。そしてメニューはと言えば、「本日の珈琲の銘柄はケニア」と注文する前から決まっていた。もう、黙々とコーヒーを飲んで30分してその店を出た。疲れた。なんで心を落ち着かせる一時を過ごそうと思って喫茶店に寄ったのに、落ち着くどころではない。逆にストレスを抱えて出てくる始末である。これも仕方ないと言えば仕方ない。店側の気持ちを考えればもっともなことである。自分の店から新型コロナのクラスターを出したくない。コロナ対策は万全にということである。モヤモヤした気持ちでホテルへ。チェックインの時間にはまだ早すぎたがそれでもフロントへ行って受付。が、ここでも、「コロナ対策のため、同行者の身分証明書の提示をお願いします。」と。以前にもこのホテルを訪れたことがあったが、そのように言われたことはなかった。クラスターが発生した時の連絡先確認のためである。もちろんマスクは着用すること。大広間で他の客たちと食事をする時も、マスク強制。バイキングだったが、右手にビニール手袋をするようにスタッフから言われた。コロナ感染予防である。トレーやお皿、食べ物を取る時のトング、それらにコロナウイルスが付着しないためである。以前、ノロウイルスによる食中毒事件があった。確かバイキング形式の飲食店だった気がする。それと同じ考えだ。息苦しい。ただただ息苦しい。マスクをしているからだけではない。この雰囲気が息苦しい。窒息しそうだ。こんな息苦しい旅は初めてだ。言っていること、やっていること、もちろんわかる。しかし、本来、リラックスして、ゆったりとした旅行気分を味わいたいところ、それとは逆に、すべてが強制的、抑圧的である。個人の自由などそこには介在しない。飲食店やホテル側の言い分は非常に理解できる。しかし、執拗なまでのコロナ対策に力を入れ過ぎて、接客業、サービス業としての本来の業務がなおざりになっている。訪れた客に対して、癒しを与える側の人間が、逆に心に負荷を与えている。客は疲れる。これは新型コロナに感染することが恐いのではなく、自分の店から新型コロナの感染者が出て風評被害に遭い、店が廃業に追い込まれることを恐れている結果だ。店側としては至極当たり前の考え方だ。店側に間違いはない。間違っているのは我々世間である。もっと寛容になるべきだと思う。新型コロナ感染者が発生した店に対して、もっと優しく、広い心で受け止める余裕がほしい。みんな一所懸命に対策をとって努力をしているわけだから、その努力に、頑張りに敬意を払う、心のゆとりを国民がもつことが必要であると思う。

 

優しさと自分の理想

 「自分の弱点を克服し、自分を自分の理想に近づける日々の努力。」それは具体的にどのようなものか?「周りに親切であること。」「周りと仲良くすること。」「周りと穏やかに付き合うこと。」この3つを心がけることである。その積み重ねが自分を理想に近づけていく。これは、いま読んでいる「~話し言葉で読める言志四録~志の見つけ方」(佐藤一斎著:長尾剛編訳:PHP)の中にでてくる言葉だ。人には親切に、仲良く、そして穏やかに接する。これは相手に媚びを売ることではなく、おもねることではない。自分の意思をしっかりもち、常に落ち着いた態度で、相手に対して傲慢にならず、謙虚にして思いやりのある接し方をすることが大切であるということを言っている。なかなか難しいことだと思う。人の幸せを素直に喜べること、そういう気持ちが大切であると佐藤一斎先生はおっしゃっている。相手に敬意を払い、自分は穏やかに、そして謙虚であること、そしてその人の幸せを思い、親切にしてあげること。確かに理想的な人であり、自分もそうなりたいと思う。謙虚で、いつも穏やか、そして優しい。そうありたい。

優しさと彼岸花2020

 庭に植えてある彼岸花がまだ咲かない。おかしい。昨年の2019年9月26日に「優しさと彼岸花」という題目で日記を書いた。去年も咲くのが1週間くらい遅れた。一昨年までは、どんなことがあっても確実にお彼岸の入りには咲いていた。感心するくらい、ピタッと咲いた。それが今年もまだ咲いていない。赤色、白色含めて10株くらいあるが、そのうちの2株からやっと緑色をしたアスパラガスのような茎が顔を出してきたところだ。すべてが咲くのはいったいいつになるのだろうか?去年だけかと思っていたら、今年も遅い。おかしい。何故だ?やっぱり異常気象なのか?気温が高い?よくわからない。明日はお彼岸の中日だと言うのに、彼岸花が咲いていない。うちだけかと思っていたら、近所にある彼岸花の群生地でも咲いていない。何かがおかしい。なんだ?「彼岸花」にはいろいろな別名がある。狐の松明(きつねのたいまつ)、狐花(きつねばな)、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、その他いろいろ。私が好きなのは、この「狐の松明」である。英名は、Spider lily、つまり「蜘蛛の百合(クモのユリ)」である。命名した人はすごい。彼岸花は確かにクモをひっくり返したような花だ。その花言葉には多数あるが、赤色、白色共通で「思うはあなた一人」、黄色が「深い思いやりの心」とのこと。私の庭には赤色と白色があるが、黄色の彼岸花はない。「深い思いやりの心」とても良い花言葉だと思う。ホームセンターに黄色い花の咲く彼岸花の球根があれば購入したいと思う。彼岸花には「彼岸花を家の敷地内に植えると火事になる」「彼岸花を摘むと死人がでる」「彼岸花を摘むと手が腐る」といった恐い迷信があるけれども、それはその花の形と色が炎に見えるのと、彼岸花の球根に毒があるということからくるものである。咲いてみるととても綺麗で、色は鮮やかな深紅であるが、そこには日本人古来の、農耕民族的な、土の匂いが香り立つ。なんとも懐かしい思いのする花である。うちの彼岸花はまだ咲かない。

優しさとカゴパク

 今日も朝から頭がくらくらして倒れそうになった。新聞に「カゴパク」に関する記事が載っていた。私も初めて聞く言葉だ。かごを「パクる(盗む)」ことから「カゴパク」。7月からのレジ袋有料化に伴い、スーパーで買ったものを入れるかごを盗んでいく人間が増えているそうだ。あるスーパーでは7月だけで150個も盗まれたらしい。かご1つ300円、それが150個で1ヶ月4万5千円の損。それと同じくして、買った物を小分けにするポリ袋、パックされた魚や肉を入れる袋ですね、ロール状になっていて、その都度グルグル巻きとって1枚1枚とる無料のポリ袋。あれを大量に巻き取っていく人間がいる。時間にして30秒も巻き取って持って帰る人間も現実にいるという。「カゴパク」という行為は完全に犯罪です。盗みです。万引きです。その行為に対して店長が注意すると、その人間は不平不満を言って開き直るという。気が狂っていませんか?仮に、別々の人がかごを盗んで行ったとしたら、そのスーパーの近所には150人も窃盗犯、泥棒がいるわけですよ。絶対に治安が悪い地域ですよ。日本全国同じ状態だとしたら、日本は窃盗犯だらけですよ。おかしくないですか?日本人の民族性とはこれほど下劣なんですか?いつからこんな国民性になったんですか?危機的状況です。道徳観というものを完全に失っていますよ。頭が痛くなってきた。このレジ袋有料化の意味を理解していない人が多すぎると思う。プラスチックゴミを減らすことが目的です。地球温暖化を防ぐため。海洋汚染を防ぐため。これ以上、地球規模での環境破壊を進めないように。それが目的です。地球温暖化については、この地球規模での急激な気温上昇は人間による経済活動の結果ではなく、地球自身による自然な温暖化の流れからくるものであると主張する人も以前いた。今でもそのように言っている人たちもいる。私もその説を論じた本を以前読んでいたこともあり、その内容を信じて納得していた時期もあった。しかし今は違う。やはり地球温暖化は人災だと思っている。海洋汚染に関しては100%人災であることを誰も否定しないだろう。みんな一度はテレビで見たことがあるだろう。魚やイルカやウミガメのお腹の中からプラスチックゴミがあふれ出してくる姿を。現在ではマイクロプラスチックというゴミが世界の海に広がっている。2050年ころには海の中に住んでいる魚の重量と同じだけの重さのプラスチックゴミが海中に散乱するらしい。食物連鎖の結果、現在すでに人間の体の中からマイクロプラスチックが検出されている(参照:「海洋プラスチック」保坂直紀著:角川新書)。レジ袋有料化に対して、「なんで有料化するんだよ!」「なんで無料じゃないんだよ!」「エコバッグなんか持ってねえよ~!」「面倒くせえなあ~!」と、いろいろと文句を言ってくる人間がいるが、全くわかっていない。私の会社でもレジ袋は基本的に有料である。それに対していちいち文句を言う人間がいる。私はその人に対して言う。「これからを生きる子供たちのためにお願いします」と。うちの会社でそこまで言う人間はいない。でも私は言う。「これからを生きる子供たちのために」と。相手に嫌な顔をされても私は言う。「子供たちのために」と。自分の子供が将来苦しむ姿を想像してもらいたい。それを考えれば自然と環境問題に意識が向かうはず。子供たちだけではない。現実問題として、地球温暖化による異常気象で各地に災害がもたらされている。相次ぐ大雨、そして超大型台風、それらの自然災害で多くの犠牲者が出ている。家屋が流された大勢の人たちがいる。形は自然災害だが、地球温暖化が人によるものであるならば、これらの自然災害は人災である。「カゴパク」をする人間、無料ポリ袋を大量に巻き取っていく人間、レジ袋有料化に文句を言う人間、みんな今を生きる自分たちの命を縮めていることに気がつかないのか?まあ、気がつかないか・・・。結果的に、大規模災害を起こしているのは、これら道徳観のない人間ではないだろうか。「カゴパク」絶対にやめて下さい。

 

優しさと「ゴーマニズム コロナ論③」

 「ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論」(小林よしのり著:扶桑社)を読み終えた。とても勉強になった。新型コロナに関して、比較となる数字をしっかり基準値として示すことで、あらためて新型コロナが普通の呼吸器感染症であることがわかった。本来であれば、感染症の専門家と言われる人たちが、小林さんのおっしゃることを、初めのうちから公の場で発信していたならば、ここまでインフォデミックに犯されないで済んだに違いない。現在でもテレビをはじめとするメディアに出演する専門家は「自粛」を国民に促しているが、どうしてなのだろう。不思議でならない。今朝のNHKラジオ第1で出演していたどこかの大学の渡航者医療センターの専門家も「まだまだ自粛してください」と言っていた。医師会内部での同調圧力があるのか?感染症に関するあらゆる数字に目を向けて、客観的に今回の新型コロナを論じれば、ここまでひどい世の中にはならなかったと思う。この罪は数年経ってから、歴史によって糾弾されるだろう。と、すでに新型コロナ事件が収束してしまったかのような言い方をしてしまったが、新型コロナの本番はこれからだ。今より気温が下がって、20℃台前半、例えば気温が25℃を下回ってくる彼岸過ぎくらいから、普通の風邪と言われる呼吸器感染症の患者が増えて来る。そして11月後半くらいからインフルエンザがぼちぼち出始めるようになる。これに伴って今回の新型コロナが流行する予定だ。それに向かって、これから東京都の新型コロナ感染者数はうなぎ登りになるはずである。現在は1日100人とか200人とかで推移しているが、1400万人都市におけるその数はほとんどゼロと言っていい。ただ、流行ると言っても、日本における感染者数は世界の他の国からすれば圧倒的に少ないはずである。毎年の日本国内で流行する季節性インフルエンザの年間1000万人の感染者数を考えたら、あきれるほど少ないと思う。ただし、今年の冬はインフルエンザが流行らないかもしれない。先月8月30日の日記『優しさと「新型コロナVSインフルエンザ~ウイルス同士の緩衝作用~」』でも書いたが、異なる呼吸器感染症のウイルス同士が緩衝しあって、それぞれの感染症が流行しないことがあるという研究報告が英国であったからだ。実際に現在冬である南半球のオーストラリアでは今冬、インフルエンザが流行っていないらしい。確かに今回の新型コロナ騒動で国民がマスクに手洗いを徹底しているからかもしれないが、それを考慮の上で、インフルエンザの感染者数が平年より大幅に減っている話である。それを考えると、この冬、日本においてはインフルエンザが流行らないかもしれないし、逆に新型コロナの感染者数が増えないかもしれない。もしかしたらどちらも流行するかもしれないし、どちらも流行らないで別の呼吸器感染症ウイルスが流行るかもしれない。もしかしたら呼吸器感染症ではないノロウイルス感染症が意表をついて大流行するかもしれない。ウイルス同士が本当に緩衝しあうのか、興味のあるところである。研究対象としては非常に楽しみな冬になると思う。研究対象と言えばもう一つある。これも先月8月11日の日記『 優しさと「日本人が新型コロナに罹患しない理由?」』に書いたが、「日本で暮らす在留外国人の方々の新型コロナに感染する確率はどうなの?」という問題である。昨日、ある県では新型コロナに感染した人の7割が在留外国人であったという報告があった。例えば、日本で働いているブラジル出身の方たちが新型コロナに感染する確率と、本国ブラジルでのブラジル人の感染確率を比較してみたい。日本で働いているブラジル人の場合、その生活様式は多少違っても、衛生環境は同じわけだから、限りなく日本人の感染確率に近い値を示さなければいけないところ、実際は、日本人よりその確率は高い気がする。テレビなどで発表される感染者数のみでは、その感染者の国籍まではわからないから、実際の数字は不明なので確かなことは言えないが、仮に、日本にいる在留外国人の感染確率が、彼らの本国での感染確率と同じくらいの数字であるならば、やはり、日本人の自然免疫が非常に強いものであることが推測される。このあたりも今後の研究課題にしてもらいたい。「コロナ論」の小林さんのおっしゃるように、日本人の自然免疫の強さに期待したい。「コロナ論」の「あとがき」で小林さんは「(経済の方が命より重いのだ!コロナは、ふつーの風邪だ!)こんなことを言うのは日本でわし一人かと思っていたが、徐々に同じ意見を表明している人物も現れたようで、力強く支持してくれる人も増え続けた。」とおっしゃっている。小林さんがおっしゃる「コロナ論」は至極当たり前のことであって、何ら的外れなことではない。だからこの世の中には同じ意見の人が、同じ仲間が大勢いることは間違いない。ただ、残念ながら、そういうまともな考えをもつ人たちは、なかなか表に出て来ないのだ。今までもその人たちは小林さんを応援してきただろうし、これからも、小林さん、ご家族、スタッフの方々を陰ながら見守っていくだろうと思う。私もその一人である。体に気をつけて頑張っていただきたい。

 

優しさと「つもりちがい10か条」

 「高いつもりで低いのが教養」「低いつもりで高いのが気位」「深いつもりで浅いのが知識」「浅いつもりで深いのが欲望」「厚いつもりで薄いのが人情」「薄いつもりで厚いのが面皮」「強いつもりで弱いのが根性」「弱いつもりで強いのが自我」「多いつもりで少ないのが分別」「少ないつもりで多いのが無駄」これを「つもりちがい10か条」と言う。その昔、長野県の元善光寺ご住職が作られたと言われる名言らしい。詳細は調べていない。この10か条が書かれた紙を、いつも見える自分の本棚に貼っている。以前、どこかのお寺を訪れた時に、参拝者用に配布されていたのを頂いてきたものだ。ちなみにどこかの居酒屋の男子トイレにも貼ってあったことを覚えている。ときどきこの10か条を読んでは自戒している。いつも自分がおごり高ぶることなく、いつも謙虚でいるように心がけるために。一番初めの「高いつもりで低いのが教養」という言葉が私にとって最も戒めと感じられるものだ。毎日毎日いろいろな本を読んでいろいろな知識を習得し、いろいろなことを学んでいるような気になっていると、自分は他の人より一段も二段も人間として上にいるような錯覚にとらわれることがある。でも実はそうではなく、まだまだ自分の知らない世界が無限に広がっていることを日常において思い知らされることがよくあり、天狗になっていた自分を顧みて、非常に恥ずかしくなることがある。そんな時、「高いつもりで低いのが教養」という戒めの言葉を読むと、「あ~、またやっちゃったあ~。」と赤面することが多々ある。以前、東進ハイスクール林修先生がおっしゃっていた「敗ける3条件」を思い出す。①情報不足、②慢心、③思い込み、この3つが揃った時、人間は必ず敗けると。私は日々、敗けっぱなしだ。

優しさと「ゴーマニズム コロナ論②」

 小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論」(扶桑社)を読んでいる。やっと半分を過ぎたくらいだ。一字一句を読み漏らさないようにゆっくり読んでいる。他にも読まなければいけない本がたくさんあるのでなかなか進まない。でも興味深く大切に読んでいる。9月9日の日記「優しさとゴーマニズム コロナ論」でも書いたが、そろそろ新型コロナに関する自分以外の意見に耳を傾けてみようと思い、この本を購入した。半分まで読み進めたが、その内容は当たり前すぎて、ドキドキ感というか、高揚感はあまりない。と言うと小林さんに対して大変失礼だが、国民の方々はこの「当たり前」なものの考え方を放棄している状態なのか?よくわからない。小林さんも言っている。「(日本国民には)全く主体性がないのだ!」そうなのか?そうだから「当たり前」を理解していないのだろうけれども。私はテレビをほとんど見ないし、スマホもいつもカバンに入れっぱなし、ラインもやらない変わり者だ。だから世間の情報はNHKのニュース、それから新聞などからしか得られない。当然昼間のワイドショーなどは見ないので「羽鳥慎一モーニングショー」という番組も知らない。何か知りたい情報があれば、本屋さんで本を買ってくるか、ネットで調べるか、そのどちらかである。ほとんど本だ。自分で情報を仕入れて、その内容を吟味、取捨選択し、自分の考えを持つ。今回の新型コロナに関する考え方も、結果的に小林さんの「コロナ論」と同じになってしまった。だから「コロナ論」の内容は、私としては「当たり前」なのだ。本来これが一般的な人間の一連の行為であってほしいが、当世ではそうでないようだ。毎日テレビやスマホで流され、繰り返される同じ内容の報道が、絶えず頭の中に刷り込まれれば、みんな同じものの考え方になってしまう。みんなが行動を共にして、競ってテレビやスマホをのぞき込み、内容を精査せずに情報を頭の中に単純に流し込めば、画面に映るデマゴギーによって、みんな同じ人間になってしまう。これが洗脳でなくてなんなのか?とても恐いし、危険なことだと思う。人として当たり前のことを発言したら、みんなから非難されるこの社会が恐い。そういう雰囲気に何も感じていない大多数の国民が恐い。その国民性が恐いと思う。今後、日本は大丈夫なのだろうか?しかし、小林よしのりさんは、本当にすごい人だと思う。物の考え方に対する意見については常に賛否両論あるが、いつも真っ向から体を張っている人だ。本当に命をかけている人だと思う。小林さん本人もそうだが、その家族も、スタッフも命がけだと思う。小林さんについて知りたければその著書を読むとわかる。小林さんと言うと漫画家というイメージがあるが、この「コロナ論」は漫画ではない。立派な書物だ。あ、まだ最後まで読んでいなかった。読むのが楽しみだ。